河童日記

暇つぶしです

未練

久々に高校の友人たちと食事をしてきた。卒業から何年経っても全く変わらない調子、変わらない距離感で付き合える、貴重な友人たちである。就職活動を終えたもの、司法の勉強をするもの、まだ自由が利くもの、多種多様であるが、それでも、私を含めて皆が徐々に大人になっていく。

高校の時は、という枕詞から始まる会話は往往にして、何も不安がなくただただ楽しんでいられた、という結論にたどり着く。当然であろう。茫洋たる将来を前にして、そして若い精神を前にして、不安が芽生えるはずもない。何をしても、どうなっても、どうにかなるという根拠のない自信で満ち満ちていて、それを根拠にただひたすらに楽しんでいられた頃である。

それが、徐々にそうでもなくなってくる。自分の専門性や将来性が、ひいては視野が狭まり、未来が見通せなくなってくる。不思議なもので、未確定なものの多い広々とした将来を前にするほど安定感があり、諸々の要素が確定してきて将来が定まってくるほど不安なのである。私からすれば、松任谷由実の「9月には帰らない」の一節、「未来が霧に閉ざされていた頃はこの潮騒が重すぎて泣いた」とは真逆である。未来は、霧に閉ざされていてくれた方がむしろ良い。開けてくれば来るほど、その詳細に目が行くことで不安が助長される。

来るところまで来てしまったな、とぼんやりと思うのである。もはや、無邪気に将来に期待ができる年齢ではないという、ある種の諦念である。一昔前なら、どんな人生にしろ楽しさの方が上回るに違いないと信じていられたものであるが、成長するにつれて、それに対して疑念が生じてくる。一生を終えた時、差し引きすればゼロなのではないか。こういう思考を連ねると厭世的な考えに至って、ショーペンハウエルなどが身に染みるようになるに違いない。

しかしそれでもどこか楽観的に、将来への期待を捨てきれずにいる私は、まだ成長しきれていないのかもしれぬ。だがそれでもいいという思いもある。優秀な研究者が無邪気な子供に例えられるのは、人生の虚しさに気づいてもなお、未来に期待し続けて生きてきた証拠ではあるまいか。その期待の根源は、科学と向き合うことにあるのではないかと思うのである。私が科学から離れられないのは、そういう虚しさに対して科学こそが救いとなりうる可能性を捨てきれないからであるらしい。