河童日記

暇つぶしです

仮説

三菱第一号館美術館で、ダ・ヴィンチミケランジェロのデッサンや手稿を集めた展覧会をやっているというので見に行くことにした。大学院生は年齢こそ社会人とはいえ、まだ学割が効くからありがたい。学校帰りに東京駅に寄って、息抜きがてらに見てこようと思ったのである。

遅い時間だったからかそれほど混雑しておらず、それもまたありがたい。混んでいる美術館ほど落ち着かない所はない。小さい美術館だから、展示数は少ないだろうと踏んでいたのだが、展示品が小さいからか、予想以上に沢山展示されていた。どれもこれも、天才の頭の中に想いを馳せることを助けてくれるものばかりで、にやついてしまった。

それにしても、美術館に限らず東京駅の周りはいい雰囲気である。まず東京駅が良い。ノスタルジックである。周りの建物も、歴史を感じるとか洒落ているとかの類よりも、むしろやはり漠然とした懐かしさを醸している。同じ感覚を抱かせる建物として、東京タワーもそうである。あの朱色のライトアップからは言い得ぬ切なさを感じる。とはいえいずれの建物にも、幼少期に何か特別な思い出があったというものではない。何が私にそう感じさせるのか。それらの根源についてかつて思いついたことがあるから、それを基にして考えてみよう。

人間がそういう情緒を感じるには、ある種の緩急が必要なようである。激動の時代の後の平穏に感じる空虚感、あるいは夏という、太陽からのエネルギーに裏打ちされた濃厚な時間が過ぎ去ってからやってくる秋に感じる喪失感は、おそらく時間もしくは空間の緩急に基づくのではないか。ちょうど、気圧の高いところから低いところに移動した時に耳に感じる違和感と同じである。濃い時間、濃い空間からいきなり通常の状態に戻った時に起こす反応が、切なさや郷愁となって表出するのではないか。そう考えると東京駅や東京タワーに感じる情緒の根源も、時空の濃淡である。そういう建物の周りでだけ時間が止まっているように感じることが、自分の身の回りの変化の目まぐるしさと対比されて、感傷を呼び起こすのではあるまいか。何十年か振りに旧友と再会した時、老いた顔の中に若き日の面影を見つけたならば間違いなく感じるであろう感慨、大昔の写真の中に自分の姿を認めた時に感じる哀愁などは、全て同じメカニズムであるように思えるのである。

時空の濃淡などという概念が果たしてあるのかどうか、物理の勉強を突き詰めるとある程度は論理的に判断できるのではないかと思っているが、まだそこまではたどり着けていない。ただ、私の中でまだ反例が見つかっていないということからも、結構いい線を行っているのではないかと思えるのである。