河童日記

暇つぶしです

勝算

どこもかしこも人工知能でてんやわんやであるらしい。昨日もテレビで、人工知能をテーマにした特番をやっていた。そういう情報を得れば得るほど、恐ろしい時代になったものだと思う。その特番でいうことには、今や人間の評価すら人工知能が行う時代らしい。ありとあらゆる過去の人間の、それも膨大な人間のデータから、対象の人間を帰納的に分析するということのようだが、それにしても素人にはもうその信憑性が皆目検討がつかないところまで行ってしまった。無論、信憑性は作った人間にも分かるまい。

しかしこうなると、人工知能に負けたくないという闘争心が湧いてくる。勝ち目がなくても、である。昔友人と、シンギュラリティ以降も必要とされる人間になろうという話をしたが、必要とされる、では気が済まなくなってきた。人工知能のどこかに、人間にしか突けない弱点がありはしないだろうかと、探してしまうのである。

岡潔の言葉を借りれば、人間の中心は情緒である。岡潔についてはこれも書き始めると長くなるからまた今度に回すとしても、私の漠然とした印象では、人工知能に対抗するにはそのあたりを責めるべきであるように思える。機械に感情があるかないか、という議論がよくなされるが、この議論が私にはどうも本筋ではないように思える。というのも、感情は、人間がそれこそ人工知能同様に、過去の経験から帰納的に身につけてきた二次的なもののように思うからである。獲得プロセスが同じならば人工知能も感情を持ち得ると思えるし、身につかないにしてもいずれは、人工知能にも感情があると人間が騙されてしまうくらいに、人工知能が上手く振る舞えるようになるだろう。

一方の情緒は、心とはまた別の、むしろもっと奥深くからくるものである。例えば機械が、あたかも懐かしさという情緒を身につけたように動作したとしても、人間はそこに違和感を覚えるのではないか。なぜなら懐かしさという情緒が、「忘れる」という人間の弱点を基盤にしているからである。ものを忘れない機械に懐かしさは芽生えまい。ではランダムにメモリを消す機構を備えたらどうなるか。これが人間ならば、「忘れた」情報ともう一度巡り合った瞬間に「思い出す」し、懐かしさを覚えるはずである。ところが機械が意図的に消去したメモリは、また「覚え直す」ものであり、情緒は介在しないのではないか。ここに、人工知能の弱点が潜んでいるように思う。

すなわち、人間固有の弱点に裏打ちされた人間独自の思考には、人工知能も及ばないのではないかと思うのである。哲学であったり道徳であったり、あるいは科学もそうかもしれぬが、これらは皆、弱点を克服するための人類の営みのように思える。最近常々、哲学の根源は「死」への恐怖なのではないかと思うのだが、考えてみれば「死」も人間固有の弱点である。だとすれば、例えば科学の難題を解くとして、人工知能も人間もいずれは同じ結果にたどり着くとしても、人間の思考にしか起こせない発想の飛躍というものが、人間を人工知能よりも先に正しい解に導くこともあるように思えてならないのである。

未練

久々に高校の友人たちと食事をしてきた。卒業から何年経っても全く変わらない調子、変わらない距離感で付き合える、貴重な友人たちである。就職活動を終えたもの、司法の勉強をするもの、まだ自由が利くもの、多種多様であるが、それでも、私を含めて皆が徐々に大人になっていく。

高校の時は、という枕詞から始まる会話は往往にして、何も不安がなくただただ楽しんでいられた、という結論にたどり着く。当然であろう。茫洋たる将来を前にして、そして若い精神を前にして、不安が芽生えるはずもない。何をしても、どうなっても、どうにかなるという根拠のない自信で満ち満ちていて、それを根拠にただひたすらに楽しんでいられた頃である。

それが、徐々にそうでもなくなってくる。自分の専門性や将来性が、ひいては視野が狭まり、未来が見通せなくなってくる。不思議なもので、未確定なものの多い広々とした将来を前にするほど安定感があり、諸々の要素が確定してきて将来が定まってくるほど不安なのである。私からすれば、松任谷由実の「9月には帰らない」の一節、「未来が霧に閉ざされていた頃はこの潮騒が重すぎて泣いた」とは真逆である。未来は、霧に閉ざされていてくれた方がむしろ良い。開けてくれば来るほど、その詳細に目が行くことで不安が助長される。

来るところまで来てしまったな、とぼんやりと思うのである。もはや、無邪気に将来に期待ができる年齢ではないという、ある種の諦念である。一昔前なら、どんな人生にしろ楽しさの方が上回るに違いないと信じていられたものであるが、成長するにつれて、それに対して疑念が生じてくる。一生を終えた時、差し引きすればゼロなのではないか。こういう思考を連ねると厭世的な考えに至って、ショーペンハウエルなどが身に染みるようになるに違いない。

しかしそれでもどこか楽観的に、将来への期待を捨てきれずにいる私は、まだ成長しきれていないのかもしれぬ。だがそれでもいいという思いもある。優秀な研究者が無邪気な子供に例えられるのは、人生の虚しさに気づいてもなお、未来に期待し続けて生きてきた証拠ではあるまいか。その期待の根源は、科学と向き合うことにあるのではないかと思うのである。私が科学から離れられないのは、そういう虚しさに対して科学こそが救いとなりうる可能性を捨てきれないからであるらしい。

発見

髪が伸びてきた。前髪が眉毛よりも下まで伸びてしまってもう鬱陶しくて仕方ない。近所の床屋に行ってさっさと切ってもらいたいものなのだが、少し立て込んでいるせいで中々行けていない。自分の意思で髪の成長を止められたら良いのに、と思う。

人間の髪は一生の間にどれくらいの長さになるのか、気になったからインターネットで調べてみると、伸び率が一定だと仮定して、およそ10数 m らしい。無論これは、途中で成長が止まることや、抜け落ちることを考慮しない場合である。想像以上に短くて驚きである。そういえば仏様の螺髪は一本の髪の毛が丸まったものだということを思い出して、ではそれがどれくらいの長さかということでこれまたネットで調べてみると、なんとどこにも見当たらないのである。漫画の描写を参考に求めているものはあるが、知りたかったのとは少し違う、誇張されたものだったから今回は採用しなかった。

ネットにも載っていないことに巡り合うのも滅多にない今日この頃だから、妙に嬉しいものである。こういうことは、暇な休日に図書館にでも行って、じっくり探せば見つかるかもしれない。それはそれで楽しそうである。

野生

研究室からの帰り道、研究所から駅に向かう道を、小さな黒い影が3つ横切っていった。猫だ、と思った。その3つの影は大きい1匹と小さい2匹で構成されていたから、仔猫も含む猫一家だろう。どちらかといえば犬派の私にでも、たまに見る猫は可愛らしく見えるものであるし、仔猫となれば尚更である。それで近づいていったのだが、よくよく見てみると姿形が何が違う。

猫にしては胴長だし、尾も太いし、足も短い。怪訝に思っていると、道の端からもう1匹飛び出してきて、そこでようやくその顔を見ると、特徴的な白い鼻筋である。ははあ、猫ではなくてハクビシンだったか、と思ったのも束の間、そのハクビシン一家は道沿いに建った家の庭へ消えていった。何年か前、東京にもハクビシンが住み着いた、という記事を読んだ記憶がある。この外来種め畑を荒らしおって、という思いもありつつ、しかしハクビシンを見るのは初めてだったから、少し興奮してしまった。

後で調べてみると、見るからに作物を食い荒らしていそうな可愛げのない顔である。暗い夜道で見るぶんには結構愛らしい顔つきをしていると思ったのに、やはり日頃の行いというのは顔に出るものである。とはいえ彼らも悪さを働こうとして畑の作物を食べるわけではあるまいし、日本にだって来たくて来たわけではないはずだから、彼らは彼らでなんだか可哀想である。

慣れない日本に来て、ひっそりと、でも確実に繁栄して、今や家族で東京をうろつくようになったと思えば、彼らの生命力たるやあっぱれである。きっと彼らの一生を人間のそれに引き伸ばして考えたら、我々とは比べものにならない早さで順応していくに違いない。ちょうど研究が行き詰まってきたのをハクビシンに見透かされて、私の適応力不足を指摘されたようである。猫よりもよっぽど良いものを見た。