河童日記

暇つぶしです

逆転

友人によると、「言語学的、哲学的な通説として、西欧では紙に書かれることよりも口によって発せられるもののほうが本心を表していて重要視され」、「一方で日本や中国では逆で、話していることよりも書かれたもののほうが重要視される(されてきた)」らしい。興味深い違いである。表音文字であるか、表意文字であるかの違いが起源である、という言語学者もいるそうだ。その起源はさておき、これを前提として考えると、昨今のSNSの発達が、西洋化の波の一端であるように思えてくる。

LINEやTwitterを始めとするSNSは、書くことを限りなく話すことに近づけるツールのようである。電子媒体として氾濫する情報の多くは、いわゆる会話の形式で表出されている。本来の状態、すなわち書かれたものが重視されていた状態から、発話されたものが重視されていた状態への変化であろう。遡れば、おそらく電子メールの普及あたりから、この逆転が生じたのではあるまいか。

手紙のような、書かれたことに基づくやりとりが廃れていくのは寂しいように思うが、ありとあらゆるものが西洋化してしまった現代においては、それも仕方ないのかもしれぬ。それでも、日本では古来から書かれていたことのほうが重要視されてきたことを踏まえれば、本質的に、会話よりも文章を介しての方が、我々にとっては円滑な関係を構築しやすいのではないかとも思うのである。

現代社会においてはしばしば手紙が再評価されているように思われる。SNS疲れなどという言葉も聞かれる時代である。もしかするとそれらも、西洋化された情報交換手法に対してどこか使い勝手の悪さを感じているからかも知れぬ。

偏食

音楽に対して偏食気味である。小さい頃に聴いていた音楽が、現在まで私を支配している。桑田佳祐山下達郎井上陽水松任谷由実小田和正玉置浩二桜井和寿あたりがレギュラーメンバーとでもいおうか。時折他に手を出してみたりもするが、大体すぐに飽きてまた戻ってくる、ということが延々と繰り返されている。レギュラーが強すぎて、補欠に出場機会が与えられないのである。トレンドといったものは、一応ラジオから仕入れているつもりでいるのだが、なかなかピンとこない。驚異の新人が現れるのを待つのみである。

レギュラーの何がそこまで私を惹きつけるのか、それぞれについて分析してみればおそらく大変長くなるので、今日はとりあえず山下達郎に絞って考えてみよう。というのも、今日がその山下達郎のライブだからである。

私は音楽に関する知識といったものはあまりないため、山下達郎の音楽性の高さについては、定評があるとはいえ中々議論できない。だかそれ抜きにしても、その職人気質はひしひしと感じられるものである。ただただ音楽が好きな人が、自分の中のこだわりをひたすら具現化しようと努め続けて、その人がたまたま才能溢れる人だったが故に、たまたま人々の目についただけである。それを聴く周りの人間は、おそらく眼中にないのであろう。私としては、そもそも自分の為にやっているのだろうから、ライブであっても、我々は聴かせていただく立場で、お取り込み中のところ少々お邪魔します、といった心持ちなのである。

私が惹かれるのはただただその芸術性である。芸術性の結晶として表出してくる音楽が、心に響かないことなどありえないではないか。そのこだわりぬいた楽曲が、独特の理想を纏って我々の元にやってきて、そこから彼の生き様が透けてみえる。これはもはや一つの文学作品なのである。

雑音

小型の音楽プレーヤーに初めて触れたのは、MDプレーヤーをお下がりで貰った時である。なぜ貰えたのかは覚えていないし、欲しがったような記憶もないが、おそらくどこか壊れたりしていたのだろう。今思えば随分と嵩のある代物だった。やがてその機能は携帯電話に搭載されるようになり、スマートフォンによってそれはさらに高度化した。携帯電話を使っていた頃から行き帰りなどでは音楽を聴くことが常であったため、友人といるとき時以外は、おおよそ何かしらを聴きながら移動していた。

それにしてもイヤホンは壊れやすいらしい。先日もまた壊れてしまった。過去にも何度か壊れたことはあったが、それはいつも片方からしか音が聞こえなくなってしまう壊れ方であり、そういう場合は違和感を我慢すれば、生き残っているもう一方から音楽を聴くことができた。ところが今回は、全く使い物にならなくなってしまったのである。代わりのイヤホンも無く、仕方がないので久々に何も聴かないままで通学することになったわけだが、これがどうもそわそわするのである。

静かな街中を歩いているときは、別段気にならない。むしろ鳥の声やら風の木々を揺らす音やらが心地良い。それが電車に揺られている時となると、全く状況が異なる。自分の周りの空間が急に圧を強めてくるとでもいおうか、四方八方から聞こえてくるいろいろな音が、全て不思議と耳に残ってしまうから、何をするにも息苦しいのである。慣れていないせいもあろうが、それにしても少し驚いた。私が電車内で音楽を聴いていたと思っていたのは、実際は周囲の雑多な音をカムフラージュしていたに過ぎないらしい。

電車の音が耳に慣れるまで待つか、早い所新しいイヤホンを買ってしまうか、迷いどころである。音楽がカムフラージュであると気づいてしまった今、その用途のためにイヤホンを新調していまうと、それはそれで忍びない気もするのである。

距離

私が中学高校時代を過ごした街は、表情豊かで素敵な街だった。四季の移り変わりで言えば、春は桜が咲き誇り、それはやがて鮮やかな緑に変わっていって、秋はイチョウが黄金色に色付き、冬は時折降る雪が心を踊らせるのであった。いわゆる学園都市であったためか、下品な店はあまり無く、喫茶店や文房具屋や本屋が通りを賑わせていた。多感な時期をそこで過ごしたせいで、その街並みが私の理想そのものとなった。桜が散った後の通りのいたるところに落ちていた毛虫や、秋の銀杏の匂いの臭いことや、そういう必ずしも美しいとは言えない様相ですら、その街の構成要素として愛おしく思えてくるのは、今はもう通っていないその街への郷愁が生み出す錯覚かも知れぬ。大学に入ってからも時折その街を訪ねていっては、懐かしい感傷に浸ることがしばしばあった。それが許される包容力がその街から感じられた。

その街が今年の春、大学の卒業も決まって久々に訪れた時、今まで感じたことのないよそよよしさを見せたのである。かつてよく入った本屋も文房具屋も、幾度も歩いた通りも、まるで見知らぬ街のように感じられ、そのあまりの突然さに戸惑いを隠せなかった。街並み自体に大きな変化はない。ただ私に見せる姿が変わったのである。私を受け入れてくれる数少ない故郷をの一つを失ってしまったように感じて、ひどく寂しかった。

最近訪れた時にはこの感触は幾分か和らいでいたものの、いつまたその時のような寂しさを感じるかと思うと少し恐ろしい。思い浮かべれば無数に出てくる懐かしい光景も、実際に再び目にした途端に空虚さをまとって霞んでしまうのではないか。晴れた日に通り沿いの木々が投げかける木漏れ日も、夏の盛りのうるさくも心地良い蟬時雨も、店先に吊るされた風鈴の音も、雪の朝の静けさも。あるいは何を買うか真剣に悩んだ道沿いの自販機も、入ってみたくても中々入れなかった洒落た喫茶店も、文具屋の隅にひっそりと並べられた万年筆も。