河童日記

暇つぶしです

証明

顔にニキビができてしまった。鬱陶しいことこの上ない。どうも気になって、触らない方がいいのに触ってしまうから、治るものも治らないような気がして、余計に気になってしまう。

これまでマイペースに生きてきたものだから、ペースを乱されるのは苦手なのである。人間関係はそういうものだから、まあ仕方ないにしても、ニキビやら天候やら、こちらではどうしようもないことにかき回されることはいささか腹立たしい。例えば頬杖をつこうとする、そこにニキビがでんと構えていれば、それだけで調子が狂うものである。

ニキビ薬も効きにくくなってきたように思う。何故か考えていて、ピンときた。大人になったのである。よく広告に出ている、大人ニキビである。あれがついに私を苦しめ出したに違いない。大人ニキビが出来るということは、れっきとした大人である。なんだ、自分はまだ子どもだ子どもだと思っていたのに、気がついたら大人ニキビが出来るほど大人になっていたのである。

そう考えるとニキビは、自分の立ち位置のサインでもあるように思える。精神状態と深く関わっているに違いない。青年のニキビ面が思春期の表れであるのと同様、大人になるとその時はその時で、それとわかるニキビができるようである。とはいえ大人の定義については私の中でも纏まっていないから、これについてはまた今度書くことにしよう。

相殺

梅雨入りしたにもかかわらず、ここのところいい天気が続いている。「お天道様が見ている」というのが何かしらの抑止力につながることが確信される天候である。お天道様云々が何故広まったのかについて調べてみると色々面白そうだと今ふと思ったが、本題からは外れるから、またいづれ書くことにしよう。今日触れたかったのは梅雨についてである。

梅雨は大嫌いである。雨ばかりで気が塞ぐし、ジメジメしていて陰気臭いし、良いことなど一つもない。水不足になっては困るから、仕方なく受け入れてはいるが、無いに越したことはない。一方、梅雨のおかげで夏が引き立てられるというのもある。夏の訪れを前に、一度梅雨によって気分を落としておいてから、夏を全身で感じてその高揚感を存分に味わうというものである。どちらにしても、私にとって梅雨は邪魔者もしくは前座に過ぎないのである。

とはいえ、ようやく梅雨にも許せるところが出てきた。紫陽花である。小さい頃は大して気にも留めず、地味な花だなあと思っていたところを、最近急にそれに魅力を感じるようになってきた。道路沿いに咲いている紫陽花をみると、まあ仕方ないと思えてくるのである。

四季のなかに梅雨という不届き者が紛れ込んでいるのを、自然も後ろめたく思ったに違いない。さすがに雨ばかりでは気も滅入ろう、ここにこの時期に似合う花でも置いておくから、といった具合であろう。よく出来たものである。

 

不要

ただの猿だった生物が二足歩行をし、道具を使い、言葉を操り、宇宙にまで飛び出しているのだから、人類の進化は大したものである。大したものではあるが、それにしては進化にムラがありすぎやしないか。何を言いたいかというと、髭についてである。

毛むくじゃらの猿だった時代から、進化を遂げてここまで至ったのに、未だに顔の周りの体毛だけが頑なに残っているのは解せない。体毛が身体の保護の役割を果たすというのは理解できる。例えば頭髪については、大事な脳を守る役割があるとして許してやっても良い。だが髭の生える部位はそれほど大切な機能を有しているとも思えないし、有しているにしても人類にならば髭などに頼らなくても容易に守ることのできる場所である。何故今更そんな古風な髭などに保護を任せているのか。

髭は面倒である。伸び放題にしていては鬱陶しい。食事するにも長い髭は邪魔であろう。サンタクロースがナポリタンを頬ばろうものなら、何か野蛮な印象を拭えない姿になるに違いない。伸びると不便だから剃るにしても、朝の忙しい時間に髭を剃るのは億劫なのである。

そもそも髭を剃っている人間が不便を被っていないことからも、髭が無駄なことは明らかなのである。考えてみると現代の人類は、全体を見渡すと知性の進化と理性の進化が釣り合っていないのである。それが知性の暴走であれ理性の怠慢であれ、そのせいで、文明にとっての科学の重要性が社会に真に理解されず、科学が不遇をかこつことになるのだが、それは置いておくとしても、知性に理性が追いついてくるのを待つ間に、髭を根絶する方向に進化しても良いのではないか。最近よく目にする脱毛の広告は、ようやく人類が体毛の不要性に気づきつつあることの証左かもしれぬ。

意外

大学院の健康診断があった。身長、体重などはもちろんのこと、胸部X線やら心電図やら採血やら、仰々しい検査を次から次へと受けさせられる。特に採血にはあまりいい思い出がないため、できれば受けたくないものを、いいから受けろというのだから酷なものである。中学生のころ、初めて採血というものを受けた。血液である。私が頑張って作り出した私の身体の一部である。それをまあ気前良く採らせてしまったせいで、その後貧血のようになってしまった。目が眩んで、立っていられないのである。しばらく休んで事なきを得たが、それ以降採血は嫌いである。

おそらくその時以来の採血であったため、内心冷や汗をかいていたのだが、前日、健康診断の案内を見ていた時に、採血の10時間前からは食事を取ってはならないという注意書きを目にして、採血される前から気が遠くなった。健康診断は午前11時からである。要は朝食を取るなということである。以前はそんな縛りなどなかったのに急にどうして、である。いくら成長したとはいえ、血液を作る材料すら満足に摂らずに血液だけを採らせていては、また貧血になること請け合いである。

仕方なく今朝は朝食を摂らずに家を出たのだが、すでに足元が覚束ない。思い返してみれば、記憶している限りでは朝食を抜いたことがない。おそらく初めての経験である。ああ朝食は偉大だと、全身で感じているうちに、いよいよ採血の順番が回ってきた。看護師が三人いて、手際よく学生の採血をしているのだが、真ん中の一人だけその回転率がずば抜けて高い。両脇二人の二倍くらいの速さで採血をしている。きっと速いだけに一つ一つが雑なのだろうな、とぼんやり思っているうちに私を呼んだのは、よりによって真ん中の看護師である。嗚呼、空腹でふらつく私の腕に、雑な看護師が無造作に注射針を突き刺して血液を取るだけ取ったならば、後に残るのは血の気を失って倒れ臥した私に違いない。悲観的な気分すらもはやどうでもよくなって、私は半ば自暴自棄になりながら腕を差し出したのである。

ところがである。その看護師がまあ上手い。針を刺しても全く痛くないし、見事な手際で採血するものだから刺している時間も短く、針を抜いてもほとんど出血していない。一滴の血液も無駄にせず、必要最小限だけ採血して、あっという間に終了である。感心しているうちに採血は終了し、終わってみればふらつきも全くなく、狐につままれたようであった。こうして私の健康診断は、滞りなく終了したのである。奮発して買った昼食のとんかつ弁当が、美味しかった。